Syndic No.31 ~ 2020 “Girl of Peace Statue / Table of Contents”
Syndic Literary Journal

Syndic No.31 2020 “Vacant Seat ~ Japanese Text”

Vacant Seat  ~ Japanese Text

Written & Narrated by Taki Yuriko

Vacant Seat ~ Part 1

Vacant Seat ~ Part 2

Vacant Seat ~ Parts 3 & 4

         

空席

     多喜百合子

         Ⅰ

 

その像の正式の名は「平和の少女像」

120cmほどの高さで じっと 椅子に座っている。

その隣には だれもいない もう一つの椅子がある。

 

「あなたも 座ってみて、私と同じ目の高さで 歴史を 世の中を見てみて」

そう言っているようだ。

 

第2次世界大戦中、日本帝国軍によって造られた慰安所。

目的は日本人兵士が戦地で 市民を強姦しないように

その兵士たちが性病にうつらないようにと戦線に作られた。

そこへ 連れてこられた少女たち。

だまされて 脅されて

船やトラックに乗せられて 連れてこられた清らかな少女たち。

知らない土地で 小さな部屋に一人ずつ押し込まれ

15分から 30分刻みで 毎日軍人たちの性の相手をさせられた。

軍の機密が外部にもれないようにと 厳しく管理された。

逃げることも できなかった。

 

部隊が移動するたび 一緒に 遠くへ遠くへと 連れて行かれた。

たくさんの少女たちが 命を落とした。

この像は その少女たちの 化身だ。

 

日本が負けて戦争が終わった。

日本兵の自決の巻き添えになって 死んだ者もいる。

生き残った少女たちは そのまま戦場に置き去りにされた。 

故郷に帰れなかった少女たちのなかには 

生きるために現地の 男性と結婚した人もいる。

日本兵とともに連合軍の捕虜にされて

その後母国に送還されたものもいた。

あるいは 自力で 祖国に戻った少女も いたが

みんな 地獄の日々を誰にも 話すことができなかった。

ずっと 黙って 生きてきた。

被害者だったのに

罪人のように ひっそりと 

生きて行かなければ ならなかった。

 

50年以上がすぎた。

このままでは死ねないと

老女になった 元少女たちが わずかだが 声をあげた。

やっと その実態が 世にしれた。

証言者も少しずつ増えてきた。

 

最初にこの像ができたとき

それは

日本政府の反省と お詫びの言葉、そして法的賠償を 待っている

韓国の少女の姿だった。

だから 

韓国 ソウルの 日本大使館の前に置かれた。

 

少女像の制作者夫妻によると 

・無残に切られた髪

「三つ編みや おさげ髪 でなく

掻き乱されたばらばらの髪は日本帝国軍によって『無理やり連れて行かれた少女』」

・少女の背後に伸びるおばあさんの形をした黒い影

「老女になるまで ずっとなにも言えずに過ごした 歳月を 表して いる」   

・影の胸の部分にある白い蝶

「名誉を回復して新しい世界で生まれ変わる元少女たちの希望」

・少女の肩にとまっている小鳥

 「生存している犠牲者と

無念のまま亡くなってしまった犠牲者をつなぐもの」と 

像の制作者夫妻は説明 した。

だが 筆者には 

隣の椅子に座ってくれる人がいない 少女のさびしさに 

そっと寄り添う 小鳥のようにも みえる。

・かかとが擦り切れた裸足の足は

「厳しく 険しかった人生」

・握りしめる手

「はじめは ただ 重ねられていた手だったが 

像の設置を妨害しようとする 日本政府に負けないと

こぶしをぎゅっと握りしめる形になった。」

・浮いたかかと

「地面を踏めずに少し浮いたかかとは

母国に戻っても故郷に定着できなかった姿。

『彼女たちを放置した 

韓国政府の無責任さ、韓国社会の偏見』を問うている。」

「韓国政府、社会もまた 

彼女たちの傷の回復を遅らせた責任がある。」

この少女像に込めた思いを 制作者夫妻は こう締めくくった。

 

鋳型があるので 

「要請があれば いつでも いくつも 同じものを 作れる」

 付け加えた。

 

「平和の少女像」は 

現在、韓国内だけでなく 

中国、台湾、アメリカ、オーストラリア、カナダ、フィリピン、ドイツにも 

次々に建てられている。

2017年時点で設置総数は50を越えた。

マレーシア、インドネシアにも設置予定がある。

 

注目すべき点は 

この像の設置依頼はすべてが現地の市民からのものであること。

そのもろもろの経費すべてが 

そこの市民や人権団体の寄付で 賄われていることだ。

 

 

補遺

「平和の少女像」の制作者 韓国人彫刻家夫妻 kim Eun-sung (キム・ウンソン)さんと Kim Seo-kyung (キム・ソギョン)さん の 他の主な作品

a)「少女の夢」 

韓国内でアメリカ軍の装甲車に轢かれて死亡した少女たちを追悼した像。

b)「ベトナムピエタ」

ベトナム戦争時(アメリカの要請で韓国も 兵士35万人を 派兵していた)韓国軍が現地で約9000人の女性子供を含むベトナム市民を大量虐殺したことに対して、自国である韓国の加害責任を問うた 像。

「ベトナム・ピエタ」像は大地の女神の上で虐殺された赤子を抱く母子像,それは被害者の姿だという。

 

 

         Ⅱ

 

金 福童 キム ボクドン(Kim Bok-dong)さんのこと

 

2019年 1月 28日 93歳で 亡くなった。

 

生前、今度生まれ変わったら なにに なりたいか と 問われると

キムおばあさんは 

『お母さんになりたい』と だけ答えた。

『死んだら 火葬して さらさらと撒いてほしい。

墓はいらない。護るひともいないから。

あの山にひらひらと 撒いてもらって 

蝶のように世界中をとびまわりたいな 』と言って笑っていた。

 

日本帝国軍 慰安婦 の被害者 キムさんたちの願い は

日本帝国軍が 

だまして あるいは『強制連行』して 

無理やり 慰安婦にした事実を 

日本政府が きちんと認めること。

 

そうでなければ 

彼女たちの名誉が 死んでも 回復されないからだ。

一括でなくひとりひとりに

日本政府が 当時の日本帝国軍に代わって謝ることだ。 

 

キム・ボクドンさんは

慶尚南道梁山(ギョンサンナン州ヤンサン)で 生まれ,育った。

小学校4年をおえてからは 家事を手伝っていた

 

1941年のこと15歳だった。

階級章のない黄色い制服を着た日本人たちが(陸軍軍人だとおもわれる)

町の区長と班長を引き連れて家にやってきた。

「軍服を作る工場で3年だけ 働けばいい。

しかし、15歳のキム・ボクドンがいかなければ

家族を追放し、財産も没収する。」

と 言われた。

工場ならまさか命をとられることはないだろうと 

キム・ボクドンさんは従った。

 

ところが 信じられないことが おこった。

彼女は 台湾を経由して中国広東の部隊まで連れて行かれてしまった。

その後 

香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、バンコク、シンガポール、オランダ領東インドまで 

当時は 行先もわからず トラックにのせられ 移動しながら 

終戦まで日本帝国軍の性奴隷として 扱われることになってしまった。

 

 

解放後 朝鮮半島に やっと生きて帰ってきたのは23歳のとき。

それ以来 66歳になるまで 夫も 子供もなく 

釜山で 商を しながら

ずっと ひとりで 生きてきた。

 

これがキム・ボクドンさん、66歳の時 

他の元慰安婦の 勇気ある証言に触発されて

初めて、した 証言だ。

 

日本帝国軍「慰安婦」の被害証言を 続ける中で

キム・ボクドンさんは平和運動に導かれていった。

それは無念の死を遂げたり、

匿名で生きていくしかない性奴隷制の被害者たちの声を

象徴するかのようだった。

 

キム ボクトンさん は 

国連や ウイーン世界人権大会

さらに 米国、 日本、フランスなど 

世界各地を まわった。

いつも 人々に 

第二次世界大戦下における

日本帝国軍性奴隷問題に対する関心を促す 話をした。

最後には「戦争のない世界」をと 強く訴えた。

 

66歳のキム・ボクドンの行動の源は

自分のような 戦時性暴力被害者が

二度と生まれないことを 強く望む気持ちだった。

 

運動の中で コンゴやウガンダ 他

世界中の武力紛争地域で行われている性暴力も知った。

 

この問題を すぐにでも 解決してほしいという

キム・ボクドンの強い訴えは 国際社会を動かした。

 

2015年、キムさん89歳の時、

国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」

フランスのAFP通信が共同で選定した

「自由のために戦う英雄100人」に、

金福童(キム・ボクトン)さんが選ばれた。

金さんの他には、

南アフリカ初の黒人大統領であるネルソン・マンデラ氏や、

米国の黒人人権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師などが 

一緒に 選ばれている。

このほかに キム・ボクドンさんが 遺した主なものは 以下である。

 

・寄付

彼女は ひとりで働いて貯めたお金の中から 日本の東日本大震災の被災者や在日朝鮮人学校の生徒に約300万円の寄付をした。

蝶基金(2012年3月8日の世界女性の日に韓国で戦時性暴行被害女性を支援する目的で、できた基金)にも約550万円を寄付している。

 

・約束

将来「日本政府」から 日本帝国軍による「強制連行」の事実に対する 謝罪 と正式の 賠償を受け取った際は その全額をコンゴ内戦で性暴力を受けた女性たちへの支援活動に寄付をすると公式に発表した。

 

・韓国人としての謝罪

ベトナム戦争時韓国軍による被害にあったベトナム女性に対して

自らも戦時下の性被害者であるキムさんが 

心からの謝罪のことば を

あらわした。

 

キム・ボクドンさんの告別式は 

ソウル日本大使館の前で行われた。

韓国外務大臣Kang Kyung-wha康京和氏をはじめ

法務大臣の朴相基(パク・サンギ)氏、

文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長のほか

韓国与野党の多数の議員が弔問に訪れた。

藩基文前国連事務総長、も又 弔問した。

翌29日には文在寅大統領が弔問にあらわれ

遺影の前でひれ伏して

キムさんの 沈黙を破って証言した勇気と 

その後の行動に対して敬意を表した。

 

数日後 イギリスのBBCも 

キム・ボクドンの 人生を 報道した。

 

 

Ⅲ 

 

「平和の少女像」は 世界各地の博物館でも 

展示されることが 多くなった。

しかし 

現地の日本の大使館や領事館がやってきて

説明版※1の内容に抗議したり 

像の撤去を求めることが繰り返されている。

皮肉なことに 

その抗議のニュースの おかげで 

逆に 関心が高まり 雨後の竹の子のように 

「平和の少女像」は ますます世界各地に増え続けている。

 

キム・ボクドンさんは 亡くなった。

だが 

「平和の少女像」は 彼女の 遺志を継ぎ 

日本やドイツ※2で行われた

自国の軍隊のために制度化、正当化した性奴隷の存在を 

明らかにしている。

さらに 

戦後、侵駐軍の兵士から強姦されないようにと 

日本の女性の防波堤として設置された 

進駐軍向け公式慰安所※3で 働かされた 女性たちがいたことも

教えてくれる。

過去のことばかりでなく

今も 戦地で 

恒常的に行われている兵士による市民へのレイプ被害者たちの 

声なき声 まで 伝えてくれる。

 

被害者なのに 

罪人のように 沈黙して生きてきた 女性たちの歴史。

そのすべてを 背負って

「世界共通の戦時の記憶」として 

「平和の少女像」 はそこに 座っている。

 

シリアやISでは 現在進行形で 従軍させられている

性奴隷たちがいる。

まだ 手をさしのべないのかと 

こぶしを握り締めて 座っている。

 

※1 例 その1 として 

アメリカのカリフォルニア州 グレンデール市に建てられた少女像の説明

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平和の記念碑

1932年から1945年のあいだに 日本帝国軍によって 強制的に性的奴隷状態にされた200.000人以上の韓国、中国、台湾、日本、フィリピン、タイ、ベトナム、マレーシア、東チモール、インドネシアの故郷から移送された

アジアとオランダ(注釈の項 参照)の女性を偲んで。

そして日本政府がこれらの犯罪の歴史的責任を受け入れることを勧告する。

 

2007年7月30日のアメリカ合衆国議会 下院決議121号の通過と

2012年 7月30日の グレンデール市による「慰安の日」の宣言

を 祝って。

 

こんな不当な人権侵害が決して 繰り返されないことが 私たちの偽らざる願いです。

2013年7月30日

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注釈

旧オランダ領東インドは現在のインドネシア。第2次世界大戦で、日本軍はこの地を1942年に占領し、オランダ人を抑留、捕虜にした。民間人9万人、軍人4万人が収容所にいれられた。
一部の日本軍関係者は、収容所に抑留されたオランダ人女性と混血女性を慰安所に強制的に連行して、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いた。

 

 

 

例 その2として ドイツ ハンブルグでの「平和の少女像」展示の際の説明板

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この「平和の少女像」は 第2次世界大戦中 日本軍によってアジア・太平洋全域で いわゆる 「慰安婦」として軍売春宿で 性奴隷制度へと 強制された 数十万人の少女と 若い女性の苦しみを 記憶に留めるものです。

女性に対する暴力が時代や地域を超えて 起こっています。したがって その歴史の事実を忘れたり 警告を 怠っては いけません。この記念碑はその非人間的な制度化された戦争犯罪犠牲者の記憶を通じて世界中の性暴力のすべての犠牲者との連帯のもとに平和をよびかけるものです。

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出典 Süddeutsche Zeitung,南ドイツ新聞 および 週刊金曜日

 

これらの説明文に対して 日本政府の言い分は 以下である。

1 強制ではなかった。

2 20万とか 数十万という数字も 実態とは違う。多すぎる。

3 この問題は日韓の問題であり すでに日本は 1993年には当時の内閣官房長官の河野談話で謝罪もし 1995年にはアジア女性基金を作り日本人一般市民からの募金を中心にそれに政府からの拠出金(寄付という名目)も併せて被害女性たちに対する道義的償い金としてお金も払っているのだから 解決済みだ。一部の被害者はそれを受け取ってもいる。

 

※2ドイツナチス軍も 日本と同じようなドイツ軍兵士による現地女性に対する強姦と兵士側の性病り患を防ぐ施設として 日本帝国軍と酷似した 制度 を とっていた。専用の慰安所は 約500、被害女性は 主に ポーランド 旧ソ連の ウクライナから 強制的に連れてこられた少女たち 3万人以上。

出典 Wikipediaドイツ語版Zwangsprostitutionの項)および

2019年 1月 ドイツ 国内で 放送されたドキュメンタリーFrauen als Beute-Wehrmachut und Prostitution

 

※3

特殊慰安施設協会RAA(Recreation and Amusement Association) は第2次世界大戦後 連合軍占領下の日本政府によって開設された慰安所。

日本政府は一般の日本女性を連合軍の兵士によるレイプから守るために最大で5万5000人の売春婦を仕事の内容を明らかにせず募集したがその必要がないことがわかり短期間で閉じた。

 

          

         Ⅳ

 

「平和の少女像」のとなりにある 空席に

あなたも座ってください。

目を閉じて 少女が 着ている チマチョゴリを 

洋服や アオザイ(ベトナム)、チャイナドレス、

当時の日本の女学生の制服であったセーラー服などと、

そして

あなたの国の少女たちの服に置き換えて

この少女たちに何がおきたかを 

今何が起こっているかを 

是非 想像してください。

 

Compiled/Published by LeRoy Chatfield
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